ちょっと海外に出かけている間に

Mikan

と言っても、実際は一週間程度の海外旅行(スペイン)で、後の中抜けブログはサボリ。ギター演奏たっぷり聴いて来ちゃった。本物は違うのよねえ。

留守中夫が手入れしていてくれたのも、ちろんなお庭よ。中でも蜜柑。

ねえ見て下さいよ。こんなに成長しちゃって。来月には色づくな。数えてみたら凡そ100個。でも本当は150個ぐらいなっていたの。でも味を良くするため50個位落としたの。

欲しい方上げたいけど、どうしょうもないわね。

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今年は庭の蜜柑が鈴なり豊作

以前に書いたことがあるのだけれど、夫の実家の義父がわざわざ長野から持ってきて植えてくれた蜜柑の木が生長して、もう何年もの間、その味を楽しませてくれたのだけれど、去年はズルして寒肥を施さなかったせてか、本当の貧作であった。

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今年は夫に任せず、自らホームセンターに出かけ二月頃どっさり施肥したおかげで、写真でご覧のような花が一杯咲いた。花が落ちた後には既に3㎜程度の実を実らせている。

実ったらどうするかな?食べきれるものでもないし、ご近所つきあいはそれほどないし。コマッタな。

写真はダブルクリックして見てください。

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自分制作のMIDIをCDに

Image1 タイトルのことはもう誰だって知っているかも。でも、OSがVistaになってから見向きもされなくなったんじゃないかと思いながら投稿。

これは私の使っているシーケンスソフトでSinger Song Writer5.0 ( もうバージョンアップして8.0か9.0になっているかも ) というのがRoland社との提携会社、(株)インターネットから出されていて、それを使っているんだけれど、この会社から出されているのが挿絵のソフト。

こいつが簡単に自分のMIDIをサウンド系のWAVなんかに直してくれて、簡単にCD-Rに焼き付けてくれる。そのできばえというのがすっごくいいの。でも、コンポによると思う。自宅においてあるものより、あたしのチャチな車Vizについているコンポの方がよほど音質が良いのはどうしたことか。

本物のギター演奏に聞こえるのよねえ。近頃ガソリンが高く、家計にも響くから余り乗らないようにしているんだけど、自分の作ったCDが聴きたくて、つい電車で行けるところを車で行くのね。ほんとに半端な音じゃないんですよ。余りリアリティーがあるんで、聞き惚れているうち、事故起こしそうになっちゃったことがあんの。

じゃ聴かせてみろよ、と言われても、出来ないから、それを承知の上で法螺吹いているじゃないのよ。本当に良いの。MIDIやってらっしゃいます方、是非お試しを。但し、あらかじめコンポを試しておいてね。

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悪い兆し?

P6070004_2 「ねえ、ねえ、早くう……」

「なんだよお~、朝早々」

「紫陽花がぜ~ぶ、絞め殺されちゃう」

「何イ?……」

朝食を済ませて新聞を読んでいる夫に、今、キッチンの片付けを終わって庭に出て、一回りしてから、居間に立ち戻り、夫に訴えた。

私は、この梅雨の晴れ間に、庭の草取りから細かいところを手入れすることが習慣になっていて、今朝もいつもの通り見て歩いて紫陽花の株叢に立ち寄ったところで、この異状を見つけた。

何と憎らしい。……全く素知らぬふりして誰にも分からないように、何でもない紫陽花の茎の一部のような顔をして、そっと花房に巻き付いているのだ。巻き付いているところだけ取ったんじゃあ又伸びてくるから根っこの所まで辿らねばならない。それはなかなか大変な仕事。何とか髪を乱しながらもそいつの根っこまで引き抜き、やれやれと思ってもう一度見回すと、殆どの花房が首に巻きつけられている。わたしは呆然となった。

これは何か悪い兆しではないか。可憐な花房の首が絞められている。

具体的、科学的、論理的、何でもそのように物事を見つめ考えている私としたことが、何としたことか。これはどうしたことか?……でも、恐ろしい。あら恐ろしい。

「早くってばあ!……」

私は、ヒステリックに叫んだ。

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どうして私の心が分かったのか

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 あたし、 このブログの最後の日付けを見て驚いちゃった。もう半年も書いてないのね。特別忙しい日々を過ごしていたわけでもないのに。つまりは怠けていたのかしら。子供に手がかからないから、したいことはいくらでも出来る。つまり人生の絶頂期と言ったところなのに。ほんとにどうかしている。日記を書かないというのは反省の態度がないと言うことかしら。

主人は相変わらずだし、何の変哲もない人生を送っているし、今日は日曜だからのんびりしているし。

そこで、いきなり彼の写真を撮ってこのブログに掲載してやろうかと扉を開けたとたん、一瞬にして逃げられちゃった。どうしてかしら。どうして分かったのかしら。私が彼の写真を撮ろうとしたことが。わかんない。わかんない。

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最近読んで感激した本

Keiko

先ず、本のタイトルと著作者の名を紹介する。
タイトル【いのちの日記】柳沢桂子著。

あたしが彼女に対し近親感を持ったのは、彼女が東京出身であることと、あたしの現在住んでいるA県で、いつも出かける県庁所在地N市にも一時住んでおられたという履歴があることだ。でもそんな単純な話しで近親感をもった訳ではない。彼女の思想に惹かれ、教えられ、凄いひとだなと言う親近感というよりは、私にとっては最高の尊敬の念を持つことの出来る畏敬のひとだからだ。

簡単な履歴の一部を紹介しよう。(勿論巻末の自筆年譜による)

1938年東京生まれ。1950年名古屋 名城小学校卒業。1958年、お茶の水女子大理学部卒業後の58年に国際基督大助手柳沢嘉一郎氏と結婚、60年コロンビア大学動物学部大学院入学、63年コロンビア大学より遺伝学専攻で博士号授与。
1989「いのち」とはなにか-生命科学への招待}講談社
1993年「卵が私になるまで-発生の物語」講談社、等々幾多の著作。2005年、著作「生きて死ぬ知恵」でベストセラーランキング第一位。

彼女は七年間の専業主婦されたところで、1975年頃、自宅から三十分ほどのところにある三菱化成の研究所(田町市)に就職されたが、77年9月頃、子宮内膜症で手術をされた。以降、病気がちで、度々発病に悩まされたが、1990年、あるドクターがカルテに【シャイ・ドレーガー症候群】と書き込むのを彼女が垣間見てしまった。それがどういう意味かと言うことを彼女は知っていた。つまり、この種の病気は直せない病気で死に至る確率の高いものなのだと言うことを。

 やがて彼女は宗教について、科学的思考、つまり、心理学、哲学、生物学、発生学などなどの学問から扉を開け始め、人々の心が悟りを感得するメカニズムを解明するようになっていく。意識が進化してくると神なき神の時代にはいることが出来ると言うことを体験し始める。

彼女は俳人でもあるのだけれど、神は脳の中にあるとし、次のような句を詠っている。
今生に癒ゆることなき身となりて冬の野をゆく風を見ている

後書きのところで次のようなことを書いている。

いのちとは、その人個人のものであろうか?もしそうであるとすれば、自分で自分の死を決めてよいものであろうか?
……私は自分の経験から、それは違うと思うと思う。ひとりのいのちは多くの人々の中に分配されて存在している。分配されたいのちは、分配されたひとのものなのである。……いのちは自分だけのものではないということと、想像を絶する長さの歴史を持っていると言うことが、いのちが尊いゆえんであると思う。

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あたしのディスクトップ

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先日、主人の会社の、上司の奥様と、ある温泉に行った折の帰り道、立ち寄った茶店においてあった道祖神がとても可愛いく、気に入ってその写真を 撮ってきたの。それをディスクトップにしたのよお。見て、見て!

写真をクリックしてください。大きくなります。

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駄目男

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こういうのって世の中にはいくらでもいるのよねえ。見た目は確かに中年の何とかという男優そっくりのようにイケメンなんだけれど、中身が貧しいばかりでなく、勇気もやる気も持ってない。彼が、どんな生活をしているかは凡そのことはわかるのだけれど、普通に会話していて直ぐ彼の中身が分かってしまう。そう、私との関係は、お友達の旦那様。

「Reikoさんは色々多彩な方なんですね」
「あら~そんなことはありませんよ。普通の主婦ですよ」
「ギターをお弾きになったり、インターネットをおやりになったり。そればかりか、ご自分のサイトをお持ちになっておられるそうで……」
「あら!ギターはもう弾かなくなりましたよお」
「でも家内にあなたのアレを見せてもらいましたよお」
「アレ?……奥様にですか?」
アレという言葉にはいろいろなニュアンスが込められているから、うっかり他人様に対し言うものではない。
そこで、お友達が慌てて口を挟んだ。
「いいえね、主人ったら、PC得意じゃないんですの」
 わたしは内心、今頃、PCが得意だとか何とか、そいうのはおかしい、次元の違う話ではないかと思ったけれど黙っていた。昔ならそう言うことは話題になったであろうけれども、今時は、常識で、子供ですら学校やネットでのゲームを楽しんでいる時代なのだ。ケイタイが扱えるならどうってことのない話。
この日、イトーヨーカドーで偶然この友達がご主人同伴で来ていらしたので、そいじゃと言うことで店内の喫茶店に入ったのだった。
「……それにしても、あたしのサイトを見てい頂き、ありがとうございます」
あたしは、アレを見られたにもかかわらず、お礼を述べた。
「あの中のギターは、ご自分がお弾きになったものなんですよね」
あたしは心の中でなんとお粗末、聴けば分かるじゃないと、思ったれけど、それは、おくびにも出さず、
「とんでもございませんわ」
「じゃどのようにして」
と言いだしたので、もう面倒になり、
「あれは人工音楽ですよ」
「人工音楽?」
「そうですよ。パソコンでアチコチに本当のギターを弾いた音をやりとりするには大変なデーターが必要なんです。CDのようなわけには参りませんのでね。でも、少しなら、やれないことはありませんのよ。それに先に申しましたように、あたし、今は弾いていませんから」
「そうですかあ~」
彼は分かったのか、分からないのか、分からないような顔をしてあたしを見返した。私は話題を変え、
「ねえ、A子さん、グーグルアース入れた?」
「なにそれ?」
「あなた検索エンジンは主に何使っているの?」
「YAHOOよ」
「ヤフーはどうかしら、わかんないけど、あたしはグーグルなんで、大分前、コレ入れたの。地上ニ、三百メートル上空から自分の家が見られるのよお。ま、地図の航空写真みたいなもの」
「あら~じゃ、私の家も見られちゃうの?」
「もちろん」
「あら~困ったな」
彼女、あら、あらを連発した。
「洗濯物なんか、見えるんですか!」
旦那様が深刻な顔つきになって、問い詰めるような眼差しを私に投げた。
 このオタンコナス、と、つい口に出かかったのを押さえ、
「それはちょっと無理ですね。でもね、真上からばかりでなく斜めの方から角度を変えて見ることも出来るんですよお」
「ええっ!」
旦那様は大仰に胸を反らした。
旦那様、仕事がお忙しくて、パソコンに興味もわかない。奥様に教えてもらえば。

この記事、もしかえして、彼ら、読むだろうか。困ったな。今度逢ったときどうしょう。
大丈夫、大丈夫、彼らは音楽趣味ではないし、一度彼女に、サイトのタイトル教えただけなんだから、お気に入りなど入れているはずもない。
……でも、大丈夫か。……ま、そのときはそのとき。イニシャルも違うし。

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自分の行為を突き放して見る

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あたしが夫以外の特定の異性の方と、お話したからと言って、何の話題にもなるわけでもないし、問題になるわけでもないのになぜこれに拘るのかという、あたしの心理。

これは言うことのほどでもない簡単なことで、あたし以外の既婚女性のほとんどは同じような気持ちに揺らぐ経験を持っているはずだ。つまりCとAが拮抗している。でも、その差が人々によって違いがあり、生まれながらの性格となっている。直ぐハイな気分になっちゃう人、冷静な人というふうに。

いくらハンサムであろうと、イケメンであろうと。あたしは直ぐにはハイな気分にはなれない。おそらく大半の方達がそうだろう。二つの自分の心が巧くバランスをとっているのだ。

だが、そのときの状況如何によっては気持ちが変化が大きく揺らいでしまうことが多い。つまり心のエネルギーがC、A、Pのどれかに集中してしまう。
たとえば、趣味が全く同じで、音楽とかで、好きな作曲家とか曲が同じだったり、その曲に対する感ずる部分に共鳴したりするとかがあると、急にした親しみが沸いたりしてきて、気持ちが傾いてしまう。たまたま、そのとき見た彼の笑顔が何とも素敵で、あたしを見る彼の眼差しに仄かな愛しみみたいなものが宿っていたとか。……あら~

また、別の例を考えてみよう。
あたしのある友人が、日常、夫から一方的に可愛がられ、自分では何も出来なかった人形のような女性だったとしよう。ところが、突然、夫が交通事故にあって即死した。子供を抱え泣き崩れる日々だろうと思いきや、暫くすると、どこかに働きに出かけ、したたかに生きている。

よくある話だが、これなどは、夫に急死されたことにより、彼女にとって、もっとも重要なことが、子供達に対する親としての役割となったからである。

【何も出来ない性格】と【たくましく生き抜く性格】という一見矛盾した性格が、実は、どっちも彼女の真の性格にほかならなかった。
 これは見たところ、やっかいな性格である。しかし、難しいからこそ、その心理を知っておく必要がある。
つまり、Pという心理状態になることだ。今の、自分の行為を突き放し、それを客観的に眺めることだ。

いきなり、第三者になってしまうことだ。この心理状態になるには多少、意識的に練習する必要があるだろう。
天井から自分を眺めてみるのだ。かっとなっているときは駄目だから、何でもないとき、平常心の時に自分を見つめる訓練をする。
あたしは、今、ブログを書いている。何のために書いているのか、書いている内容には問題があるのか?問題があるとすれば、それは何なのか?書いたことを実行すれば、どのような結果が生ずるのか?その結果は自分を幸福にしてくれるのか?夫や子供にどんな影響を及ぼすのか?なと、など、と、ね。

 こう書きながら、彼に会いたいの。

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精神分析

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でも、あたしは愛がすべてだとは思わない。もちろん宗教的な愛を否定するつもりでは無いのだけれども、人間という生物は自我無くしては存在し得ないからだ。夫を愛するのも、子供を愛するのも元を正せば自我から来ているからだ。

自我と言っても、大学で学んだフロイト精神分析(無意識の世界を分析する)によれば、自我の崩壊などと言うセックスするときの自分とか、子供をへの気配りなどのような本能に代表される自我(C)と、経験的に習得し作り上げられた合理的、現実的な自我(A)と更に、両親や先生など、幼児期に自分を育ててくれた人たちによって作り上げた自我、つまり、現実の状況を直視し、それを集めて分析してその状況に対応した意志決定をするような理性的な心(P)と言う三つの自分がある。

わかりやすく言うと、最初の自我は、食欲、性欲などに代表される本能、つまり生まれながらの心の働き、次は、経験的に習得し、作り上げられた合理的、現実的な自我、最後には自己批判、権威的態度、理想の追求と言ったような精神活動になって現れる心だ。

この三つの心理は誰でも持っているのだけれど、それらの心の強さが同じで、それぞれの状況に応じ互いに干渉されずに機能しているかどうかはわからない。
たとえば、夫に愛されるときは、子供のように無邪気になり、彼は心から喜び、そして、朝になれば、朝食に気を遣い、子供や夫の健康、彼らの一日について思いをはせる。また、昼間の時間があるときは、インターネットとか読書とか、音楽とかそう言った精神の栄養を考え、自分の日常を振り返って見る。

と、まあ、これは健全で理想的な心の状態だけれど、この三つの心理がそれぞれの状況において、同じ強さで独立して働いているかどうかは別問題だ。でも、なかなか自分の心はそうはならない場合が多い。

 昼間で時間をもてあそばしている場合など、悪い考えがむくむく心の中に群がってくることがある。

 いつだったか、地下街へ行ったとき、偶然、ある音楽喫茶店で口をきいたその店の経営者でもあり、ソフト関係のベンチャー企業の社長さんでもある、とても素敵でハンサムな方との必然的な会話がきっかけとなり、三度目にお会いしいたとき、彼がわたしにある種の好感を持っているという事実を知りながら今日まで抑圧している自分を知っている。

必然的な会話というのは、あたしが、彼に ( たまたまそのとき彼が音楽のリクエストの受け付係をしてていた ) シベリウスのバイオリンなコンチェルト第三楽章をリクエストしたことなの。

AとCが競り合っていて、もしかしたら、Cの方に傾きかけている、つまり、干渉による汚染が始まっているという状況に気づかないのだろうか。つまりあたしの心には二人の自分が存在していることに気づいていながら、Cの心に傾きかけている。
いいのかなあ~、と思ったりするのだけれど、ここにPという自分が現れてこない。

「でも、逢ってお話しするだけなんだから、ただそれだけのことなんだから……もう一度だけ、逢いたいなあ!……いいえ、ただ音楽を聴きに行くだけなんだから」
「人生は二度とは還らないのだから」
などと考え込んでしまう。

 この記事、夫が読んだらどうなると思う?
                                                この稿つづく

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