精神分析
でも、あたしは愛がすべてだとは思わない。もちろん宗教的な愛を否定するつもりでは無いのだけれども、人間という生物は自我無くしては存在し得ないからだ。夫を愛するのも、子供を愛するのも元を正せば自我から来ているからだ。
自我と言っても、大学で学んだフロイト精神分析(無意識の世界を分析する)によれば、自我の崩壊などと言うセックスするときの自分とか、子供をへの気配りなどのような本能に代表される自我(C)と、経験的に習得し作り上げられた合理的、現実的な自我(A)と更に、両親や先生など、幼児期に自分を育ててくれた人たちによって作り上げた自我、つまり、現実の状況を直視し、それを集めて分析してその状況に対応した意志決定をするような理性的な心(P)と言う三つの自分がある。
わかりやすく言うと、最初の自我は、食欲、性欲などに代表される本能、つまり生まれながらの心の働き、次は、経験的に習得し、作り上げられた合理的、現実的な自我、最後には自己批判、権威的態度、理想の追求と言ったような精神活動になって現れる心だ。
この三つの心理は誰でも持っているのだけれど、それらの心の強さが同じで、それぞれの状況に応じ互いに干渉されずに機能しているかどうかはわからない。
たとえば、夫に愛されるときは、子供のように無邪気になり、彼は心から喜び、そして、朝になれば、朝食に気を遣い、子供や夫の健康、彼らの一日について思いをはせる。また、昼間の時間があるときは、インターネットとか読書とか、音楽とかそう言った精神の栄養を考え、自分の日常を振り返って見る。
と、まあ、これは健全で理想的な心の状態だけれど、この三つの心理がそれぞれの状況において、同じ強さで独立して働いているかどうかは別問題だ。でも、なかなか自分の心はそうはならない場合が多い。
昼間で時間をもてあそばしている場合など、悪い考えがむくむく心の中に群がってくることがある。
いつだったか、地下街へ行ったとき、偶然、ある音楽喫茶店で口をきいたその店の経営者でもあり、ソフト関係のベンチャー企業の社長さんでもある、とても素敵でハンサムな方との必然的な会話がきっかけとなり、三度目にお会いしいたとき、彼がわたしにある種の好感を持っているという事実を知りながら今日まで抑圧している自分を知っている。
必然的な会話というのは、あたしが、彼に ( たまたまそのとき彼が音楽のリクエストの受け付係をしてていた ) シベリウスのバイオリンなコンチェルト第三楽章をリクエストしたことなの。
AとCが競り合っていて、もしかしたら、Cの方に傾きかけている、つまり、干渉による汚染が始まっているという状況に気づかないのだろうか。つまりあたしの心には二人の自分が存在していることに気づいていながら、Cの心に傾きかけている。
いいのかなあ~、と思ったりするのだけれど、ここにPという自分が現れてこない。
「でも、逢ってお話しするだけなんだから、ただそれだけのことなんだから……もう一度だけ、逢いたいなあ!……いいえ、ただ音楽を聴きに行くだけなんだから」
「人生は二度とは還らないのだから」
などと考え込んでしまう。
この記事、夫が読んだらどうなると思う?
この稿つづく
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